安兵衛公園

赤穂浪士四十七士 堀部安兵衛 武庸 道場跡 "元禄15年12月14日(旧暦) 夜に吉良邸討入" 浪士集結場所の一つ

由来

忠臣蔵討入出立のち
リニューアル直後の安兵衛公園

堀部安兵衛武庸は

元禄七年二月十一日(1694年3月6日)の「高田の馬場」の決闘に助太刀し名を挙げました。安兵衛の評判を聞きつけた赤穂藩士堀部弥兵衛金丸は、安兵衛を頼んで娘婿に迎えることになります。赤穂藩主浅野内匠頭長矩の江戸城松の廊下での刃傷事件は、この七年後の元禄十四年三月十四日(1701年)に起きました。刃傷に及んだ浅野内匠頭長矩は一関藩田村右京太夫の屋敷に預けられ 即日の切腹を命じられ、その日の内に切腹して果てました。赤穂城開城は元禄十四年四月十九日に行われ、藩お取潰しとなり浪人となった安兵衛は、討入り前ここ本所林町五丁目(現在 立川三丁目十五番地)に居を構えました。

杉野十平次次房は

赤穂城開城後すぐに江戸に下向し江戸急進派と一緒に行動、近くの本所徳右ヱ衛門町一丁目(現在 立川三丁目十七番地)に居を構えました。「長編歌謡浪曲 元禄名槍譜 俵星玄蕃」の中では、槍の名人「俵星玄蕃」に槍の極意を伝授された槍の名手と歌われています。

勝田新左衛門武尭は

当初から盟約に加わり江戸に出て堀部安兵衛武庸ら急進派とともに行動。杉野十平次次房宅に同居し、本所周辺を夜回り探索を行いました。

「元禄十五年十二月十五日明暁 赤穂浪士は 討入りの為 堀部安兵衛宅に集結後 吉良邸へ向う」 この史実が安兵衛公園の由来です。

2014.10.17-墨田区区文化財担当-調査資料

赤穂浪士堀部安兵衛が住んでいた本所林町五丁目について
(安兵衛公園表記に対する評価)

『安兵衛公園 : 堀部安兵衛武庸は、赤穂藩主 浅野内匠頭長矩の刃傷事件後浪人となりこの地(旧本所林町五丁目 現在立川三丁目十五番地)に移り住む。近くに居を構えた杉野十平次次房、勝田新左衛門武尭らと吉良邸の様子を伺っていた。元禄十五年十二月十五日浪士がこの地に終結吉良邸へ討入る。』

赤穂浪士堀部安兵衛が住んでいた本所林町五丁目について述べるとき、最も信頼できる資料は、「赤穂浪士本人が書き残した資料」です。赤穂浪士直筆の史料の中で、それが分かるのが、下記の史料です。

「富森助右衛門筆記」(赤穂市歴史博物館蔵)より 『忠臣蔵 第3巻』 P.426  冨森助右衛門筆記 - 元禄十五年牛十二月十四日夜四十七人 本所林町堀部安兵衛・杉野十平次借宅江集まり致支度、(後略)

これは、赤穂浪士富森助右衛門自身が書き残し、堀内伝右衛門に託した史料で、討ち入り後にお預けになった屋敷の藩士に託したものが今日に伝わったものです。この長い記述の中に「元禄15年12月14日の夜、47人は本所林町の堀部安兵衛と杉野十平次の借宅へ集まり支度をした」という内容が確認できます。このことから、元禄15年12月14日夜に吉良邸討ち入りのために集合した場所の一つが本所林町の堀部安兵衛の借宅であったことが分かります。

次いで信頼できる史料となるのは、赤穂浪士が書き残した史料を後年書き写した史料です。移し間違いの文字には注意しなければなりませんが、大筋に手を加えたものではないと考えられます。下記の寺坂信行は赤穂浪士として吉良邸に潜入したものの、泉岳寺には行かず、命を永らえて討ち入りの経緯などを記録した人物です。国会図書館が所蔵するのは、寺坂信行が書き留めた覚書を土佐高知藩主が秘伝しており、それを幕末の嘉永元年に書写したものです。富森助右衛門よりも詳細な記述で、赤穂浪士たち誰がどこに住んでいたかを討ち入り直前の12月部分に記しています。

「寺坂信行自記」 (国立国会図書館蔵)より 『忠臣蔵 第3巻』 P.231  寺坂信行自記 ー 本庄林町五丁目 紀伊国屋店 堀部安兵衛事 長江長左衛門 毛利小平太事 木原武右衛門 横川勘平 木村岡右衛門事 石田左膳 小山田庄右衛門 中村清右衛門 鈴木十八 (他か)

上記の部分は、「本所林町五丁目の紀伊国屋店を借りていたのは、長江長左衛門と称した堀部安兵衛、木原武右衛門と称した毛利小平太、横川勘平、石田左膳と称した木村岡右衛門、小山田庄右衛門、中村清右衛門、鈴木十八である。」という内容です。

ー 本庄三ツ目横丁 紀伊国屋店 杉野十平次事 杉野九一右衛門 勝田新左衛門 武林唯七事 渡辺七郎左衛門

次いで、「本所三ツ目横丁の紀伊国屋店を借りていたのは、杉野九一右衛門と称した杉野十平次勝田新左衛門、渡辺七郎左衛門と称した武林唯七である。と記されています。以上の記述から堀部安兵衛が本所林町五丁目にいたことがわかりますが、これもいつから借りたかは書かれていません。また、本所三つ目横丁に居住した杉野十平次の記述がありますが、リーフレットにある「近くに居を構えた、杉野十平次次房、勝田新左衛門武尭ら・・・」の表記と照らし合わせても問題ありません。

最後に史料根拠として使ってもよいだろうと考えられるのは、赤穂浪士本人が残したものではなく、浪士からの聞き取りをまとめた資料です。波賀清太夫(諱は朝栄)は、討ち入り後の赤穂浪士がお預けになった四家のうちの伊予藩久松家の藩士です。久松家では、菱田権太夫も聞書きを残している。この史料はお預けになった浪士たちの話を聞書きで、元禄14年3月14日から始まり、討ち入り、泉岳寺への報告まで浪士たちが話した経緯が時間順に書き留められています。

「波賀朝栄(はがともひさ)聞書」『松山侯赤穂記聞書』)永青文庫蔵 『忠臣蔵 第3巻』 P.581 波賀朝栄聞書(松山候赤穗記聞書) - 十一月上旬内蔵助義石町江到借宅罷越候、   其他一味之者所々分レ罷在候、   寄合之場所本所二ツ目通林町五丁目二広キ店弐軒借、   是ヲ本宿二仕候、尤押懸候も此所集リ申候

この部分は、(元禄15年)11月上旬、大石内蔵助は石町へ借宅してやってきたという、その他のメンバーたちもそれぞれに分かれて住んでいた。寄合の場所は本所二ツ目通りの林町五丁目に広い家を二軒借り、この場所を宿泊所とし、討ち入りの際も集まる場所であったということだった。」という内容です。これまで見てきた3点の浪士の証言をまとめると下記の通りとなります。

1、安兵衛公園のパンフレットの冒頭「堀部安兵衛武庸は、赤穂藩主浅野内匠頭長矩の刃傷事件後浪人となりこの地に移り住む」という表記は、このままでも問題はないのですが、刃傷事件後の早い時期に移り長く住んだ印象にならないとも限らないので、「刃傷事件後浪人となり、名を変えて借り上げた家は、寄合や宿所として使われ、襲撃の際も集合場所とされた」などの表現の方がよいかもしれません。史実としては、吉良邸が両国後に移ったのは刃傷事件から半年近く経ってからの元禄14年(1701)9月3日(屋敷拝領日)以降のこと、さらに浪士たちが吉良邸襲撃を決したのは翌15年8月12日なので、それ以降に本所林町に広い家を借りたとする考え方があります。

2、パンフレット本文の現在地表記「立川三丁目15番地」は元禄年間より以前の延宝7年(1679)「増補江戸大絵図」に示される林町五丁目の位置と比較したところ、同位置と考えて問題なさそうです。